明治29年 (1896年) |
0才 |
愛知県知多郡武豊町にて父端山俊太郎、母はつの三男として誕生。
第一回国会議員、愛知県会議長四期十六年の端山忠左右衛門の孫。男3人兄弟の末っ子。男3人兄弟の末っ子。
童話作家新美南吉とお寺で勉強していたことがある。 |
明治31年 |
2才 |
両親の不縁により幼時より農家森種吉の養子となる(半田市岩滑)。
養父母にとても大事に育てられる。 |
明治36年 |
6才 |
岩滑尋常小学校入学。松井立身先生より感化を受ける。 |
明治40年 |
10才 |
半田小学校高等科入学。校長日比恪(いつき)(叔母さいの夫)。 |
明治41年 |
11才 |
元旦に実家の端山祖父より頼山陽の「立志の詩」を教えられる。
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明治44年 |
14才 |
高等小学校を卒業後、貧乏故に旧制中学・高校というエリートコースに進めなかった。
母校の給仕として小学校で働き、岡田虎二郎氏の威容に接する。腰骨を立て通すことを学ぶ。 |
大正元年 (1912年) |
16才 |
准教員講習会(4ヶ月)に行き、代用教員として働く。実家の兄端山民兵19才でチフスにより死亡。
10月より愛知第一師範で寄宿舎生活をする。校長三浦渡世平は旧幕臣。 |
大正4年 |
19才 |
チフスで入院2ヶ月。祖父端山忠左右衛門逝去。 |
大正5年 |
20才 |
卒業。愛知県横須賀尋常小学校勤務。三浦修吾著『学校教育論』を読む。 |
大正8年 |
22才 |
広島高師英語科入学、3年。(福島政雄、西晋一郎先生に師事。
思想の根源を東洋の先哲に求める学問的態度を教えられた。)
(母方の従兄山口精一氏、篤志家鳥井信治郎氏に経済的支援を受ける) ペスタロッチー研究会を福島正雄先生、柳川重行、松本義懿(よしい)らと始める。機関誌「渾沌」を発行。 |
大正11年 |
26才 |
阿倍野高等女学校に英語教師として勤務。 |
大正12年 |
27才 |
京都大学哲学科入学、3年(西田幾多郎先生に師事、沢木興道和尚、福田武雄・與(あたえ)夫妻、宮崎童安、伊藤証信、高田集蔵氏と交流)(四日市の小菅剱之助氏の経済的援助を受ける)
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大正14年 |
29才 |
養父森種吉(64才)逝去。 |
大正15年 (1926年) |
30才 |
京大手哲学科卒業。 松本文子と結婚。北白川に住む。 大学院進学。 大阪府立天王寺師範、女子師範専攻科講師となる。 |
昭和2年 |
31才 |
伊藤証信氏毎週三日京都に来られ、西洋哲学と仏教の交換講読5年半。知愚一如を学ぶ。 |
昭和3年 |
32才 |
教え子の山本正雄氏より頂いた『二宮翁夜話』、『報徳記』の中の「活眼を開いて天地不書の経文を読め」より「真理は現実のただ中にあり」「人生二度なし」との学問的開眼を得る。 |
昭和6年 |
35才 |
天王寺師範と女子師範の専任教諭となり、哲学と倫理を教えた。 福田武雄宅に新井(あらい)奧邃(おうすい)著『奧邃広録』を見出し、感激する。 大阪北田辺に住む。
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昭和7年 |
36才 |
国民精神研究所(文部省)へ半年派遣された。 金原省吾氏に処女作『哲学叙説』刊行の斡旋を受ける。 江渡狄(てき)嶺(れい)に出会う。 「真の学問は結局地方にあって、絶対自立の主体性を確立するほかなし」と思う。
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昭和8年 |
37才 |
月一回の読書会、夏冬の研修会「斯道会」が発足した。 天王寺師範本科一部生の修身科を教える。 |
昭和10年 |
39才 |
『忠孝の論理』刊行。『恩の形而上学』執筆。 |
昭和12年 |
41才 |
『学問方法論』刊行。 |
昭和14年 |
43才 |
満州の建国大学へ赴任。(西晋一郎先生推挙)7年に及ぶ。 |
昭和15年 |
44才 |
『修身教授録』(授業記録)を芦田恵之助氏推奨により刊行。(五巻、十万組普及) |
昭和20年 (1945年) |
49才 |
朝鮮平壌に学生募集のため出張中に日本敗戦の玉音放送を聞き、敗戦を知る。 (長男は学徒動員中、妻子は別途帰国の途につく) ソ連軍に拉致され、シベリア送りとなるべきところ、元白露系建国大学生に「先生お体御大事に、研究をお続け下さい。」と救われる。 新京を脱して奉天で大道易者2ヶ月。
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昭和21年 |
50才 |
引き揚げ。妻の実家(甲子園)へ。妻子と再会。次々教え子来訪。作歌三昧。 戦後民族に科せられた巨大な変革の様相とその意義を知ることに全力集中。 知人(加藤歓一郎氏ら)に請われるままに講演をして回り、敗戦国民の悲哀を痛感。敗戦の日本民族を立ち直らせるには家庭教育しかないとの考えから、その重要性を説いて回る。
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昭和22年 |
51才 |
各地の読書会・座談会に出席。月刊誌「開顕」誌友の申し込み三千近い。 二月号創刊(紙価高騰で半年30円に) 「自省を通して新生日本の道を究明せんとす」 各地の読書会、座談会に出席。
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昭和23年 |
52才 |
月刊誌「親と子」5月より発刊。 月刊科学誌「子供の科学」(明和印刷出版)の普及頒布に協力する。 「国と共に歩むもの」5巻刊行。 端山護氏を大阪へ転勤してもらい、又、開顕社専属になってもらう。
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昭和24年 |
53才 |
開顕社より作田壮一著『時代の人河上肇』、芦田恵之助著『恵 雨自伝』を刊行 |
昭和25年 (1950年) |
54才 |
明和印刷より分離し、月刊誌「少年科学」創刊。開顕社破綻。
開顕社の借財は五百万円。借金返済に懊悩。甲子園の家屋敷を売却して返済に充てる。「親と子」も廃刊に。死に場所を求めて余部鉄橋、別府航路、樹海を放浪する。「思い止まるほかなし。これ天意なり。」
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昭和26年 |
55才 |
県立篠山農大に英語科教師として勤務。神戸市楠ヶ丘に転居。 |
昭和27年 |
56才 |
3月より篠山読書会。小石と雑草に安堵。 執筆活動、講演行脚に従事する。 第一回研修会、夏(げ)安居(あんご)を京都府胡麻ク小学校で開催(8月1日〜8日、18人)(この間に48冊の本を紹介)
戦後の住まいの変遷
甲子園の家売却 |
⇒ |
神戸楠ヶ丘 |
⇒ |
西宮上之町 |
⇒ |
西宮神呪町 |
⇒ |
昭和26年 |
昭和26年 |
昭和30年 |
昭和31年 |
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吹田 |
⇒ |
尼崎市立花 |
⇒ |
西立花に実践人の家 |
⇒ |
昭和38年 |
昭和47単身入居 中川勝一氏、尼崎グループ |
昭和50年 |
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神戸灘区(三男迪彦の) |
昭和58〜平成4年 |
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昭和28年 |
57才 |
神戸大学教育学部に勤務。(塩尻公明氏招聘)7年。教育哲学(デューイの「民主主義と教育」を批判的に講読)。 教師論、紙くず拾い、「自分の学問と旅とを、躰をかけて切り結ばせてみたい。」執筆活動、講演行脚。 釜石鉱山学園初訪問。次からは学生も。
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昭和30年 (1955年) |
59才 |
月刊誌「開顕」11月号で終刊。夫人入院加療。 |
昭和31年 |
60才 |
「実践人」創刊。(ネオ行者)(8頁タブロイド判) 還暦祝いの夏季研修会に全国から道友200人を越す。 これから十年に十冊以上の著作をする、と発表。 講義、ハガキの返事、全国教育行脚、著述を行う。 『教育的世界』『教育実践の諸問題』執筆。 『回想の芦田恵之助』刊行。 坂村真民氏の詩集「ペルソナ」を古本屋に発見、大感動。文通が始まる。
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昭和32年 |
61才 |
『日本の方向(二宮尊徳と毛沢東)』『学問の再建』執筆。 |
昭和33年 |
62才 |
『道徳教育論』、『道徳教育の実践のために」執筆。 |
昭和35年 (1960年) |
64才 |
神戸大学定年退職。年金2万円/月、退職金五十万円、三男19才。 夏、冬の研修会、全国教育行脚(二百五十日/年)は続く。 車中飲食の禁。名所旧跡の見物の禁。古本屋をのぞくのが楽しみ。 山本正雄氏(53才)逝去。
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昭和36年 |
65才 |
ギブスの旅。神経痛の痛みが3年続く。 |
昭和37年 |
66才 |
教育講演1000回に。「立腰教育」の緊要なことを発表。 |
昭和38年 |
67才 |
西晋一郎先生二十回忌法要記念講演(広島大学) |
昭和39年 |
68才 |
長男惟彦の全面的支援を得て「実践人創刊100号」に『森信三全集』刊行を公にする。自費出版。 坂村真民氏が「天の声地の声」として推奨下さる。
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昭和40年 (1965年) |
69才 |
寺田一清氏、呉服商を続けながら、森信三に師事。 神戸海星女子学院大学四年制開始に当たって、教育学部教授に
就任(野尻武敏氏推薦)17年間。 4月より自宅に閉居。執筆三昧。全集編集に従事する。 『修身教授録』、『国と共に歩む者』、『生を教育に求めて』各5冊の叢書が本全集に収まる。 加えて哲学五部作『即物的世界観』、『宗教的世界』、『歴史の形而上学』、『人倫的世界』、『日本文化論』の完稿。 旧著の修訂。(新仮名遣いに、できるだけ当用漢字に、文語調を和らげる) 吹田市教育委員に就任。
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昭和41年 |
70才 |
盲精薄児を守る会会長(元校長、中途失明の真川精太氏の依頼で) 夏期研修会隠岐の島で。永海佐一郎博士(東京工大退職後故郷の母への孝養のために隠岐の島へ、自宅で無機化学反応の実験を進める)永海佐一郎博士の信念は「人間の価値=天職への熱心な度×心のきれいな度」
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昭和42年 |
71才 |
上村秀男氏を介して元兵庫県知事阪本勝氏と話し合う。森信三を生涯の師と仰ぐと著述される。 夏期研修会を閑谷学校で開催。 |
昭和43年 |
72才 |
『森信三全集』参加の機会を失した人のために、『森信三選集』の刊行。 アメリカ一辺倒でなく民族特有の根源生命の動きが始まった。 『隠者の幻』刊行。隠者に対する憧憬――新井奧邃ら野の思想家(何らの定収もないのに求道のために生き貫いた人)を現代的隠者と見る。一途な魂の希求教養小説として表現。 6月、全集25巻の編輯を完了。講演行脚開始。「世界史は人類の業の展開なり」「世の中に両方良いことはない」 森信三の創意提唱に、一人雑誌、複写ハガキ使用、立腰教育、生涯三冊の著書刊行の奨め、がある。 同志の発行本の序文193篇に。 大阪読書会再開、神戸読書会誕生、日曜読書会、耕人読書会(上村秀男氏)、岡崎読書会、倉敷読書会に毎月行く。 後は「奉仕」―返事を出す、同志の著述の相談に応じ、普及に力を入れる。紙くずを拾う。 実践人誌友二千人を超える。
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昭和45年 (1970年) |
74才 |
吹田市教育委員引退奉仕講演を吹田小中学校でする。 文子夫人(68才)逝去。 大学紛争、公害問題、中ソ対立激化、我が国の急激な生産力上昇によって極度の退廃現象の風潮が蔓延。 「腰骨を立てる教育」しかないと提唱する。 「しつけの3原則(朝必ず挨拶する、「はい」と返事をする、はき物をそろえ、いすを入れる)」が家庭でしつけられねばならないと主張。
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昭和46年 |
75才 |
『幻の講話』執筆。『修身教授録』の姉妹篇で、中高生向け。下稿完了。全集再刊の要望も激しくなったので『著作集』の刊行企画。 夏期研修会を松山で開催。 住友病院入院3週間、肺炎、天与の休養期間となる。開顕社没落より20年経過。
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昭和47年 |
76才 |
『人間―幻像と世界』著者山縣三千雄氏と初対面。 8月長男惟彦(42才)急逝、実践社の解散。 11月、尼崎市西立花の撤去寸前の家屋で独居自炊生活開始。3回転居。 地蔵も搬入。玄米自然食、挨拶、紙くず拾いを務めとする。 遠来の客も増える。 みそ汁会、とろろ汁会を開催。無名会(信州)出席。 種田山頭火著作集W『草木塔』に序文を書く。
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昭和48年 |
77才 |
『幻の講話』刊行会ができる。8月第1巻刊行。 倉敷・岡崎読書会発足。 |
昭和49年 |
78才 |
『幻の講話』第二巻刊行。 『日本人と思想』山縣三千雄著で、明治・大正・昭和の代表的思想家9人に森信三を入れられる。全く身の置き所無き思い、と述べる。 「実践人の家」建設依頼、全国同志より二千万円集まる。 5月「幻の講話」最終巻完結。 無名会の中心的指導者で彫刻家の笹村草家人氏と出会う。
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昭和50年 (1975年) |
79才 |
実践人の家落成。 阪本勝氏逝去。9月笹村草家人氏逝去。 衣服革命でヤング向きに変身する。 |
昭和51年 |
80才 |
実践人の家が社団法人として認可が下りる。 「新堂守の記」行動俊敏にして独居自炊する。 『ある隠者の一生』下稿。 国際基督教大学の小野寺功助教授の研究に期待する。 『全一的教育学』執筆。 福岡市仁愛保育園(石橋富知子氏)、田辺聖恵氏、天草に池上三重子氏を訪問。
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昭和52年 |
81才 |
上村秀男氏(65才)逝去。 |
昭和54年 |
83才 |
徳永康起氏(67才)逝去。 『毎田周一全集』、『川上清吉全集』、『田中正造全集』の刊行に係わる。 |
昭和55年 |
84才 |
『不尽叢書』(森信三に随順して、見聞きしたことをまとめる。)寺田一清氏が刊行。 |
昭和56年 |
85才 |
壱岐へ行く。 脳血栓で塚口病院入院百日。旅の連続強行の後、5ヶ月の休養となる。 神戸海星女子学院大学を辞任。 冬季研修会を神戸タワーサイドホテルする。そこで詠んだのが天(あめ)なれやこの世の生のいや涯(はて)にいのちの甦り賜(た)びし畏(かし)こさ退院後実践人の家(ネオ道場)で独居自炊をし、『続全集』編集にあたる。
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昭和57年 |
86才 |
『森信三全集続篇』刊行へ。丹生谷(にゅうのや)勉氏の清書(全集二五巻以
来)、寺田一清氏の編集、長野精一氏の校正を受ける。 木村東介氏(屈指の骨董商羽黒堂社長)が森信三の墨書に対して後世に光を放つ書と推奨される。 『森信三全集続篇』8巻の刊行を発表する。
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昭和58年 |
87才 |
脳血栓で海星病院入院後、三男迪彦宅(神戸市灘区)へ。移転する。 実践人の研修会は地域的小グループによる研修会となる。 実践人の家理事長退任。
実践人の家理事長の変遷
森 信三氏 |
⇒ |
安田善四郎氏 |
⇒ |
重田敏夫氏 |
⇒ |
昭和51年〜 |
昭和58年〜 |
昭和60年〜 |
|
山本紹之介氏 |
⇒ |
桜井敬夫氏 |
⇒ |
田中繁男氏 |
⇒ |
平成2年〜 |
平成5年〜 |
平成9年〜 |
(ここまでが森信三死亡前 歴代理事長) |
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綱沢昌永氏 |
⇒ |
井上 煌氏 |
⇒ |
岡本幸治氏 |
⇒ |
平成11年〜 |
平成15年〜 |
平成16年〜 |
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浅井周英氏 |
⇒ |
広瀬 童心氏 |
|
|
|
平成19年〜 |
平成25年〜 |
|
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昭和59年 |
88才 |
『森信三全集続編』8巻の完成(寺田一清氏の絶大な支援による) 療養中見舞い客が絶えない。 三男宅で病状も回復し、家の中では歩けるようになり、読書、ハガキ書き、見舞客の応対を楽しむ。 理事長、理事、全国同志が来訪する。 眼鏡無しで本を読む。 客をとても大事にし、名前がすらすら出て来た。寝ることが多くなっても腰骨の立っていることに医者が感心した。
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昭和61年 |
90才 |
関西地区セミナーハウスで開催された夏期研修会が最後の出席となり、「最近思うこと」と題して講話。 |
昭和63年 |
92才 |
『現代の覚者たち』(致知出版)にインタビュー記事掲載。 |
平成元年 |
93才 |
『修身教授録』再刊(致知出版)竹井出版の竹井博友社長、藤尾秀昭編集長来訪。 |
平成4年 |
96才 |
11月21日逝去。 『契縁録』第3集、『余光録』刊行。
*年齢はその年の誕生日(9月23日)の満年齢。 *戸籍では「のぶぞう」、戦後通称「しんぞう」となっている。 *上記に書ききれない沢山の人脈のお世話になっている。
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平成5年 |
- |
三回忌半田市名誉市民に推挙される。 |
平成6年 |
- |
半田市が新美南吉記念館創設に伴い、その一室を森信三記念室とされる。又その図書室に著書が陳列される。 |
平成8年 |
|
森信三生誕100年記念全国大会が 半田市雁宿ホールにて行われる。 |
平成17年 (2009年) |
- |
実践人の家設立30周年・生誕110年記念全国大会が尼崎市ホテルホップインにて行われる。 |
平成26年 |
- |
「実践人の家」に「森信三資料館全一庵」を開設。 |
平成27年 |
- |
「実践人の家」設立40周年・生誕120年記念全国大会が尼崎市ホテルホップインにて開催。 |